ノーマン・ロックウェルの作風

ノーマン・ロックウェルの評価

最近、デパートのポスター売場で古き良きアメリカの平均的な日常生活を描いた複製画やカレンダーを見かけることがありませんか?ここ数年インテリアの要素として人気が高まったのがノーマン・ロックウェルの作品です。アンディー・ウォーホールとは違う意味でアメリカ的な代表画家で、音楽に例えれば、ジョージ・ガーシュインに匹敵する国民的アーティストです。しかし、彼の評価が高まったのはやはり生前よりも死後のことで、それまで、美術界では素晴らしいイラストレータ、フォーク画家、絵描きなどと呼ばれても、芸術家と呼ばれることはありませんでした。一方彼は希にみる職人的な画家で、ライフワークとして描き続けたアメリカの週刊誌「サタデー・イブニング・ポスト」には、1963年休刊まで47年間、編集部の提案するテーマに沿って表紙を提供し続けています。表紙の主題を決定したのはいつもポスト誌の編集部でした。これは今日の広告デザイナーと広告主との関係に似ていますが、ロックウェルに幸いしたのは、ポスト誌の考えがほとんど彼にとって共感できるものであった点です。


日常生活を描く

ロックウェルにとってアメリカ人の日常生活を描くことは、作品の重要な主題です。子ども、とりわけ少年や犬などの小動物が作品に頻繁に現れるのは彼の生い立ちに影響しています。両親とも画家として、その才能の血筋を引くノーマンは、1884年にニューヨーク郊外の上流家庭に生まれました。少年時代は描かれる絵とは対照的な都会で過ごしますが、彼は都会の喧噪が大嫌いで、自分の少年時代の理想を穏やかな田園風景の絵に込めて表現しています。加えて、本人は痩せて、内股、しかも度の強い眼鏡をかけた少年で、彼の作品に出てくる活発なこどもたちとは違っていました。ノーマンは自分の絵に、こうあって欲しいという楽しい少年時代を託していたわけです。彼が晩年、ユーモアに満ちた自画像を描くのにも共通点があります。

イラストレータから芸術家へ

ロックウェルの職業画家としてのスタートは幸先がいいものでした。18歳でイラストレーション画家として生計を立てるようになり、1916年若干22歳で、「サタデー・イブニング・ポスト」の表紙を飾るようになりました。ロックウェルを世に知らしめたのはポスト誌で、休刊のため「ルック」へ仕事が移るまでほぼ休み無く描き続けています。おかげで彼は若くしてすっかり裕福になり、30代はゴルフにヨット、さらに禁酒法時代には自分専用の密売ルートまで作ってパーティを楽しみました。南米やヨーロッパの旅も大いに楽しみましたが、1920年代のモダンアートの風潮に自分の作風が突然古びて見え、画風を変えたこともありました。しかしポスト誌は採用せず、没になっています。この画家としての悩みは後にも尾を引いていきます。この一時的な画家としての迷いを境に少年自身を描くことから、大人が少年時代をノスタルジックに思い出すような描き方に変わっていきます。

ノーマン・ロックウェルの描き方

ロックウェルは絵の細部に対して異常なほどこだわり、特に顔の描き方には注意を払いました。そのため、モデルを写真に撮ってから表情の動きを細部にわたって描こうとしました。その点でロックウェルは画家の前に写真家でした。彼は配役を決め、モデルの配置を決め、そして演出して撮影するコマーシャルフォトグラファーのような手法をとりました。背景や小道具、コスチュームも考慮に入れて、気に入ったものを探してから、入念な準備を行った上で撮影に臨んだのです。しかし、ロックウェルは写真からのみ絵を描いたわけではなく、時間が許す限り、モデルを使った作品も残しています。一般に写真から絵をおこすと、構図は平板になりがちですが、彼の作品ではそれを見分けるのは不可能に近く、作品の出来を左右するものではありませんでした。 2回目の結婚をした40代の中頃ロックウェルは再びスランプに陥り、従来の作風とは違ったアプローチを試みます。ダイナミックで対照的な構図に挑戦し、従来の殻を破ろうとしましたが、結局ポスト誌からは前衛的過ぎると拒否され、彼はますますスランプに落ち込みます。残念ながらこの時の実験的な作品は一切発表されず、現在は幻の作品となっています。長男が生まれて、50歳を越した頃、ロックウェル調の作品の絶頂期に入り、多くの傑作を残しています。きっかけは「トム・ソーヤの冒険」などの冒険小説の挿し絵の依頼でした。彼は作品の構想を膨らませるため物語にちなんだ場所へ旅行してまわりました。その見聞がこれまで蓄えたエネルギーを開花させるきっかけとなり、作品には映画の名場面のような語りかける力が宿って来ました。

作風の変化と職人肌


ロックウェルの作風に変化、というより作品の主題に変化が見え始めたのは、1950年の終わりの頃からです。52年のアイゼンハワー大統領を描いてからは4年毎の大統領選に合わせて候補者の顔を描き始めました。60年代になるとケネディ大統領誕生、エチオピアの貧しい農村、ソ連の小学校、アポロ月面着陸など政治色のある作品が発表されました。70歳まで彼の言う「私は日常生活を営むごく平凡な人たちを描きます。それが私のできる全てなのです。」通りの作品を量産し続けましたが、晩年の10年間は全く違う主題に挑戦しています。何故でしょう?これはロックウェルが死ぬまで職業画家であった証なのです。かれは最後まで依頼主に忠実であり続けました。ポストが休刊してから、彼が選んだ雑誌は「ルック」でしたが、政治的な作品のほとんどはルックの編集部の依頼であったからです。すでにアメリカでも大作家で通るロックウェルが最後まで自分を押し通すのではなく、顧客の要求に従ったことはまさに、彼のプロフェッショナリズムの現れでした。

 

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