不況のディズニーを救った音楽コンビ

アラン・メンケンとハワード・アシュマンの黄金コンビハワード・アシュマン(左)とアラン・メンケン

ディズニー映画と音楽は切っても切れない関係ですが、ディズニー映画の歴史をちょっと乱暴に“音楽”で区分しますと、戦前の「白雪姫」や「ピノキオ」から50年代の「わんわん物語」くらいまでのスタンダードなミュージック音楽の時期、「メリーポピンズ」などシャーマン兄弟が活躍した60年代、そして、88年の「リトルマーメイド」から92年の「アラジン」にいたる、作曲家アラン・メンケンと劇作家ハワード・アシュマンのコンビで最も音楽的に成功した時期の3つとなります。とりわけ、映画の大ヒットがなく、ディズニーの経営が苦しかった70年代、80年代にこの2人の登場はまさに救世主的な存在でした。経営危機に見舞われたとまで言われたディズニー映画復活のきっかけになったのは、まさに2人の黄金コンビで良質な作品を作り出した88年の「リトルマーメイド」から始まったと言えます。
さて、2人の中でも“ディズニーミュージカル”に企画から参加し、実質プロデューサー的な役割も演じた鉄人ハワード・アシュマンに焦点を当て、映画成功の秘密を解きあかしたいと思います。

才能ある2つの出会い

ハワード・アシュマンハワード・アシュマンはメーンランド州ボルチモア生まれで、10才になるころから学校でミュージカルの演出を行っていたと言われています。一方、アラン・メンケンは生まれながらにして、祖父、父、叔父、それから親戚の多くが歯医者であったことから、はじめは歯科医になることが当然であると考えました。しかし、音楽の才能を信じたメンケンは作曲家を志すようになり、79年にちょうどミュージカル制作で作曲家を探していたハワードと出会い、以後コンビを組みます。このときの印象を『ハワードと最初に出会ったとき、ぼくは彼がなにをしたいかわかった。ぼくはピアノに向かい、歌詞を読んで言ったんだ。「君がしようと思っていることはわかる。でも、あるセッションはカットしなければいけないだろうし、歌詞の韻を変える必要もあるかもね。」するとハワードは耐えられないような表情で「違うんだ!ぼくがなぜ書いたとおりにしてほしい理由はだね・・・」とくるんだ。彼は劇作家であり作詞家であるから、歌のすみずみまで作曲家を自分の思ったとおりに導びこうとした。こんな作家はあまりいないよ。しかし、彼は誰よりも音楽に関して信頼してくれたし、ハワード以上にぼくの音楽を理解し、尊重してくれた人はいなかったね。』アラン・メンケン

ディズニー社と2人の出会いは、当時の副社長ロイ・ディズニーが86年にアシュマンを電話で呼んだところから始まります。ディズニー社の目的は当時低迷していた会社の復興です。オフブロードウェイで空前のヒットを飛ばしていた「リトル・ショップ・オブ・ホラーズ」の作家に注目したディズニーは、彼らに次回作「リトルマーメイド」の成功を賭けてみようと思ったのです。アシュマンは他の仕事をしていたメンケンを呼び寄せ、一緒に仕事を始めます。メンケンがディズニーのマーメイドチームに加わった時、ハワードは実質的なプロデューサーとして制作に打ち込んでいました。
「リトルマーメイド」の前のアニメーション作品「オリバーとその仲間たち」はそこそこの成功を収めましたが、複数の作家たちが曲を提供したため、全体にイメージの統一がなされていないと考えた2人は、アニメに対して演劇としての効果とストーリー展開の2要素をうまく組み合わせようと試みました。特に、アシュマンはメンケンに歌だけを作曲するのではなく、映画全体のスコアも書けと強く勧めました。

『ハワードは古いレコードをかけてぼくに聞かせるんだ。ぼくは何か感じとって、「ちょっとレコードを止めてくれ。」とハワードに頼み、ピアノに向かう。そして、自分の音楽になるまで弾き続けて、かたちになったら5線符に書き始める。いつもハワードはぼくの後ろにいて「グレート、グレート!その感じ、いいじゃないか、完璧だよ!」と指を鳴らしながら言うんだ。このような2人の仕事でのやりとりは作品の出来不出来のバロメーターになっていたね。』とメンケンは回想します。また、「マーメイド」の時の彼らの歌づくりへのこだわりは、監督や脚本家が物語のスクリプトを声を上げて読んでいる脇で、2人はその同じパートに合わせて出来上がった作品を歌っていたという話しからもわかります。

アシュマンの遺産

さて、作品がミュージカル化されて今年ブロードウェイで大ヒットを飛ばし、日本でも劇団四季が公演を予定している2人の2作目はなんでしょうか?(答えは最後に)。3作目は多くのCGが印象的に使われた「アラジン」です。ティム・ライス(左)とアラン残念なことにアシュマンは、91年3月に40歳の若さで2作目の作品の完成を見ることなく、AIDSで亡くなります。しかし、彼は「アラジン」に多くの遺産を残してくれました。彼は88年の「マーメイド」制作時に「アラジン」を企画しており、制作にかかる以前に6つの歌を作っていました(映画で使われたのは3曲)。メンケンがアシュマンの病気を知ったのは「リトルマーメイド」のアカデミー賞受賞の数日後です。アシュマンの家を訪問した彼は、自分はHIVの陽性だと告げ、2人は何日間かに渡り病気のことを話し合い、そして仕事に戻りました。アシュマンは「アラジン」の最後の作詞にかかりましたが、従来PC上で創作していた歌詞の入力すら出来なくなり、紙と鉛筆で最後の力を振り絞りながら作詞を続けたようです。アシュマンを引き継いだのはアンドリュー・ロイド・ウエッバーとのコンビで有名な英国のヒットメーカー、ティム・ライスです。彼は「アラジン」で"The Whole New World"などの名曲を作りましたが、メンケンとの共同制作はアシュマンの場合と違い、簡単にいきませんでした。彼らは事情により歌作りをニューヨーク、ロンドン間を電話やファックスでやり取りしながら進めていました。しかし、ティムが言うように、アシュマンはすでに「アラジン」の作品とその制作スタッフの中にビジョンと性格を植え付けており、彼らはその方向性に従って制作を進めたのでした。(nao)

<アラン・メンケン映画音楽リスト>The Little Shop of Horrors(1986)
1986 『リトルショップ・オブ・ホラーズ(The Little Shop of Horrors)』(1986)
1989 『リトル・マーメイド(The Little Mermaid)』(1989)
1991 『美女と野獣(Beauty and the Beast)』(1991)
1992 『アラジン(Aladdin)』(1992)  『ニュージーズ(Lincoln)』(1992)
1993 『ライフ with マイキー(Life with Mickey)』(1993)
1994 『ポカホンタス(Pocahontas)』(1994)
1995 『ノートルダムの鐘(The Hunchback of Notre Dane)』(1995)
1997 『ヘラクレス(Hercules)』(1997)


答え:原作ジャン・コクトーの「美女と野獣」

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