大瀧詠一とはっぴいえんど

日本語のロックの誕生

はっぴいえんどのファーストアルバム日本のロックシーンの始まりは、欧米バンドのコピーからでした。1960年の終わりまで「日本語はロックにあわない」が常識で、日本でロックをする限りコピーバンドの域を越えるのはなかなか困難でした。そこにあえて挑戦したのが、細野晴臣、松本隆、鈴木茂そして大瀧詠一の4人が69年に結成した“はっぴいえんど”です。デビュー当初、フォーク音楽の始祖のごとく登場した岡林信康のステージに付き合った“はっぴいえんど”は、岡林のバックバンドとして一般に認識されていたようで、ロックバンドとしては異端視されていました。その後、フォーク・シンガーの動きは70年代初頭に反体制的な内容の歌詞が若者に支持され、そしてメッセージ色の強い歌がフォークソングの主流になっていきます。吉田拓郎や井上陽水の音楽が日本のメジャーな歌謡として育っていったのは衆知のとうりです。
反面、日常生活の描写や心象を主に歌った“はっぴいえんど”はその意味では一部の人々にのみ強く支持された音楽です。しかし、“はっぴいえんど”の影響が「キャロル」のような英語交じりの唱法につながり、日本語を音符ごとに載せて英語のようにデフォルメした唱法で人気を得た、サザンオールスターズなどにも影響を与えています。

“はっぴいえんど”のその後

A Long Vacationさて、今回はボーカルの大瀧、ベースの細野、ギターの鈴木、そしてドラムの松本の4人でデビューした“はっぴいえんど”のその後それぞれの活動を少し紹介したいと思います。
まず、リーダー的な存在の細野晴臣は、松任谷正隆、鈴木茂、林立夫らとキャラメル・ママを結成。荒井由美の「ひこうき雲」「ミスリム」、吉田美奈子の「扉の冬」などをプロデュース。「ティン・パン・アレー」と名前を変えて、大瀧や矢野顕子、そして南正人のレコードでバックを務めます。その後、ご存じYMO(イエローマジックオーケストラ)を結成。東洋のエキゾチックな感性とシンセサイザー・サウンドの融合を試みた音楽は、またたく間に世界を席卷しました。その後の彼の活動は、今日のYMO復活まであまりにも多岐に渡るのでここでは割愛します。
鈴木茂は、キャラメル・ママ時代にユーミンなどの作品で渋いギターを聞かせてくれましたが、70年代後半からは主にアレンジャーとして活躍。石野真子、桑名正博、中島みゆきから WINKまで職人芸的なアレンジャーとして活躍しています。
ある意味で松本隆は、“はっぴいえんど”の大半の作品で作詞を手がけ、日本語に合ったロック歌詞の原点を作った人と言えます。1972年に南佳孝の「摩天楼のヒロイン」で作詞の大部分とプロデュースを行い、アルバム自体も名盤として高い評価を受けました。それ以後、彼の本業は演奏家としてよりむしろ職業作詞家、プロデューサーとしての名声を高めます。彼の初期の作品はニューミュージック系以外でも幅広く、古くはチューリップの「夏色のおもいで」、アグネス・チャンの「ポケットいっぱいの秘密」そして太田裕美の「木綿のハンカチーフ」などが有名です。商業的に最も成功した例は松田聖子への作品提供で、他に寺尾聰の「ルビーの指輪」や大瀧詠一のアルバム「A Long Vacation」などビッグヒットを数多く生んでいます。

大滝とフィル・スペクター

ナイアガラトライアングルVol.1のメンバー最後に「ナイアガラVOX」(レコード盤)を以前買ってしまったように、個人的にもファンである大瀧詠一のその後(詳しくはこちら)を紹介します。ナイアガラVOX
“はっぴいえんど”の後の大瀧は、主にCMソングを手がけます。有名な三ツ矢サイダーの他、花王やシチズンにも作品を提供しています。彼は、75年「ナイアガラ」というレーベルを作り、フィレス・レーベル(フィル・スペクター)を強く意識して音楽活動を始めます。一人でプロデュース、作詞、作曲、編曲、エンジニアそしてヴォーカルまでこなして、フィル・スペクターサウンドの再現を試みたり、60年代アメリカンポップスの匂いが残る新しいサウンドを追求します。ナイアガラレーベル第一弾としては、シュガーベイブの「SONGS」で山下達郎、大貫妙子、村松邦男らと共作したり、翌年山下達郎や伊藤銀次とアルバム「ナイアガラトライアングルVol.1」(写真右)を制作したり、今日のミュージックシーンの主役とも言えるミュージシャンと多く共演しています。77年の自信作「ナイアガラ・カレンダー」の商業的失敗によりナイアガラ・レーベルの活動は低迷しますが、3年間のレーベル活動の停止後、81年に発表した「A Long Vacation」は、松本隆の作詞、曲によっては細野晴臣のベースや鈴木茂のギターが入り、“はっぴいえんど”の流れを集大成したような大瀧サウンドを練りに練りあげた傑作です。このアルバムは、リリース後18ヶ月間チャート入りしてロングセラーを続けました。その後の84年「EACH TIME」を最後に彼は新作アルバムを発表せず、主として他のミュージシャン(小林旭など意外な人が多い)の音楽プロデューサーとして活躍しています。 (nao)

おまけ
個人的にお勧めの大滝詠一のUnofficial Websiteです。とても丁寧に作られています。

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