性格が悪いベートーヴェン若い頃のベートーヴェン

楽聖と言われたロマン派の大作曲家ベートーヴェンも今世紀以降の研究により、これまでの聖人的なイメージとは違いかなり正確な人物像をプロファイリングできるようになりました。天才に奇人が多いのは世の常ですが、先天的、また後天的な要因もあり、その人の性格を形成していく過程はさまざまです。ベートーヴェンの場合を推測すると後天的な可能性が高く、その根拠は彼の病歴にあります。ご存知のように彼は、音楽家としては致命的な難聴と言う疾患に冒されました。最後にはまったく聞こえなくなり、しかも結果として死に至らしめる要因となりました。では何がこれほどベートーヴェンを苦しめ、彼の性格を変えていったかを検証してみます

青年時のベートーヴェン
幼いころ天然痘にかかったベートーヴェンは、10代後半でウィーンに上京した時には、小柄でずんぐり、顔には天然痘の跡があり近眼で、見た目にはまったく魅力のない青年でした。しかし、才知にあふれて、きらきら光る意志の強い神秘的な眼をしていたと言われています。 26歳の時、早くも難聴の傾向が始まっています。ベートーヴェンはウィーンにデビューした10代からそのピアノ演奏に関しては評価が高く、演奏家として、名声もお金も得ていました。しかし、難聴がすすむにつれ、演奏の技量は低下していきます。演奏が悪くなるにつれ、彼の性格も気難しくなっていきました。

ハイリゲンシュタットの遺書
ハイリゲンシュタットの遺書 1802年、32歳になる直前に彼はハイリゲンシュタットで自殺を考え、弟のカール宛てに遺書を残しています。聴力の問題もありましたが、他に慢性的な下痢に悩まされおり、主な収入源である演奏旅行へ行けない状態が続きました。意志が強いベートーヴェンは、収入面もありますが、音楽家としての人気の低下には神経的にも参りました。なぜなら彼のプライドが許さなかったのです。弟への遺書にもあるように、彼自身はこれまでの病気との戦いに何度も希望を失いかけたため、その度にふさぎ込む様子が、周りから強情で人間嫌いに陥ったと思われた点を非常に残念がっています。つまり、みんなとの会話の中、聞き取れないにもかかわらず、プライドの高いベートーヴェンは、 「もっと大きい声で話してください」という一言が言えなかったのです。 そのため、周りがはしゃいでいる時も沈黙を保ち、愛想のない奴と思われていた様子が伺われます。本来社交的である(本人がそう言っている)性格であるにも関わらず、彼の絶望、怒り、悲しみは内へ内へと閉じ込められていきました。実際、自殺は実行されなかったのですが、これを境に彼は演奏より創作に自分の才能を使っていきます。

黄金の7年間
19世紀のウィーン地図
ハイリゲンシュタットの遺書からの7年間、つまり1809年までにベートーヴェンは生涯の多くの傑作を生み出しています。交響曲では、3番「英雄」、5番、ピアノ協奏曲では4番と5番、ヴァイオリン協奏曲、ピアノ曲では「熱情」「エリーゼのために」などベートーヴェンの作風が顕著に現れてきた作品群はこの時期に集中的に作曲されました。この時期は難聴の問題も一時的に進行せず、演奏活動をあきらめていたベートーヴェンは多くの時間と情熱を作曲活動に向けたわけです。


 

苦痛の40代
ベートーヴェンが家事を世話するメイドを頻繁に替えたのは有名な話ですが、ほとんどの場合はメイドの方が耐えられなくなって辞めました。演奏家としての道は閉ざされましたが、貴族のパトロンも付き、作曲家としての名声も高まりはしました。しかし、病気の進行、問題児の甥の問題を抱え、さらに恋もうまく行かず、彼は性格的にも自己崩壊へと進んでいったのです。特に、1810年頃、つまり40歳を境にベートーヴェンは、難聴のみならず下痢や他の疾患により、創作意欲が失せていくと同時に気性が一段と激しくなっていきました。彼は病気による苦痛のため作曲をしばしば中断し、ひとつの作品にかかる時間も以前に比べて多くを要するようになってきました。 1818年になると耳はほとんど聞こえなくなり、常に会話帳を持ち歩くようになります。この会話帳は後世のベートーヴェン研究家にとって貴重な資料となります。特に彼の病歴はかなり詳しくまで推理できましたし、彼の交友関係、経済状態、その他精神状態もかなり詳細に読み取れます。 1823年、交響曲第九に取り掛かった53歳のころ、さらに腸炎、胃炎が加わり、体の不調から来る肉体的、精神的な苦しみは頂点に達していました。その反動が第九の作品中に「歓喜」として表現されたと言えるかもしれません。


病気の根元デスマスク
ベートーヴェンは26歳から難聴に悩まされ、続いて様々な病気に冒されたのはなぜでしょうか?運命のいたずらか?彼個人の問題か?研究家たちは2度も!ベートーヴェンの墓を掘り起こして、調査しました。諸説はありますが、説得力があるのが梅毒説です。先天的なものか後天的なものか不明なため、病気の経緯は分かりませんが、聴力障害、腸障害、頭蓋骨の変化等は梅毒が病因となって引き起こされたと見るのは理論的に筋が通ります。いづれにせよ、難聴は症状で、病根は別にあったのは間違いありません。ベートーヴェンが亡くなった原因は肝硬変でしたが、その引き金となったのは梅毒であり、慢性腸炎であったと推測できます。ベートーヴェンは当時としては57歳という長い生涯を送りましたが、最も驚くべきことは孤独に無名墓地に入ったモーツァルトとは違って、ベートーヴェンはウィーン市民約3万人に見送られて、墓地に入った点です。彼は奇人と見られた分だけウィーン子には有名で、難聴で指揮をしたため、さらに有名になり、そして作品はナポレオンの人気とあいまって、これまでの型を破った自由な楽想が受けいれられました。ベートーヴェンは、そういう意味では幸せな人でした。